企業が今こそ踏み出すべき10倍のスピードで10倍の価値を生み出すAIファースト化企業へ生まれ変わるための8つの取り組み
こんにちは、EXDREAMアシスタントの中野です。
2025年、突如生活にAIが普及し始め、AIコンサルタントという業務を始めたわたしの行動においても変化がありました。
それはGoogleで検索するよりもAIに聞くことが多くなったということです。
その結果、時間あたりに得られる回答の数は増えましたが、情報の品質が下がったような違和感を覚えました。
そして結局は、自分の体験や感情を通した一次情報がないままでは、情報としての価値へ昇華することは難しいのではないかと感じるようになりました。
これは、AIを本格的に学び始めて約半年の筆者がとある1冊の本を読んで学んだことを語るコラムです。
気軽な読み物としてご覧いただけますと幸いです。
2026年にかけて、わたしはCEOの斎藤から借りた養老孟司さんの『ものがわかるということ』を読みました。
その冒頭で、わかるという瞬間は一生こないというようなことが語られていました。
AIを使って未知なことをすべてわかりたいともがいていた私はその一文に引き込まれ、2026年最初に読み終わり2025年最後に読んだ本はこの本となりました。
結論から言えば、この本は「ものがわかるということ」を言語化して定義することは難しいと語られています。
じゃあ一生なにもわからないのか、と言えば「わかるとしたら、共鳴でしかない」とも語られています。
私が最初に思ったことは、結局ものごとを100%理解できることなんてないのか、という落胆とも似た気持ちでした。
なぜなら、私たちが生きるAI時代は、すべてが言語化され、言語を通してしかAIを使うこともできないからです。
この本を読んで、私たちはAIを通してどこまでわかると言えるのか、そしてAIを通してものごとをわかると言えるには、どのようなことが必要なのかということについて新たに疑問を感じました。
わたしは2025年の5月頃から本格的にAIを使い、学び始めました。
ChatGPTを利用しはじめたは2024年10月頃は、ChatGPTに人生相談をする程度しかAIチャットの利用方法を知りませんでした。
その後、EXDREAMの一員としてビジネスへのAI活用方法や壁打ちの仕方を覚えるにつれ、リサーチや資料作成をAIに指示を出して日常的に行うようになりました。
AIで調べればそれなりの答えが返ってきます。
検索の手間はかなり減り、私は「まるで世界が拡張されたようだ」と喜んで使いました。
便利になったのは確かです。ところが同時に、別の感覚も生まれました。
それは、「わかった気がするのに、理解できていない」という感覚です。
わたしの「理解できていない」感覚はどこからきたのでしょうか?
AIは驚くほど速く、整った文章を書きます。
おそらくその自分をも超える異常な速さがわたしの理解能力にかかる速度を超えてしまったのかもしれません。
例えば文章を書くときは必ずClaudeのお世話になっています。
例えばクライアントへ送る返信文を添削する際は、Claudeにチェックしてもらい、失礼がないかどうか、他に良い言い回しがないかなどを指摘してもらうようになりました。
そして、Googleで調べものをするときにも、検索結果の各ページを開くことは少なくなり、代わりにトップページに表示される「AIモード」で生成される回答を先に読むようになりました。
さらに、今ではExcelもCopilotやClaudeで操作することができます。
昔、私が特技だと言っていた関数の入力やピボットテーブルの作成なんてものは、AIへの指示の仕方さえ知っていれば誰にでも同じようにできるものになりつつあります。
Excelの資格を全て取得している私ですが、そのことを堂々と履歴書に書くのが恥ずかしい時代になってしまったのかもしれないと落ち込みました。
資料作成も同様です。私が1時間かけて作るものを、AIは数十秒で、それっぽい完成品にしてしまいます。
しかもAIが文章を生成してる間、私は画面を見てぼーっとしていても、席を立ってみかんを取りに行ってもいいのです。
彼らは文句も言わず24時間私が指示すれば動き続けます。
AIへの指示さえ正しく出すことができれば、私でなくても、もはや未経験者でも、「似たようなもの」を作成できてしまう。
つまり、AIによって誰もが平均的なアウトプットを手に入れられる時代になりました。
そのアウトプットを本質的に理解でき使うことができるかは別問題ですが、作業としてはAIがやっても人間がやっても同じか、むしろAIの方が速い場合もあるでしょう。
では、同じアウトプットの中で差をつける価値とはなんなのだろうと考えた結果、その人しか体験していないこと、つまり一次情報であるという仮説に至りました。
私は業務でAIビジネスニュースをYoutubeで発信しており、AIツールを使ってニュースを分析したり台本を作成したりしています。
ですが実際、台本を見返したり、実際に口に出してみると、文のつながりが不自然で、自分で聞いてもよく分からないことがよく起きます。
自分では絶対に使わない言い回しや、不自然な記号が入っていることもあり、よくよく見ればAIが書いた文章の特徴が透けて見えます。
なぜこの順番なのか、なぜこの結論なのか説得力がない、そしてたまに平気で嘘も混ざっています。
なぜAI任せにして文章を書こうとすると、逆に伝わりにくい文章になってしまうかというと、AIがまとめた要約を、私がそれらしく並べていただけだったためです。
これこそが、AIの使い方が悪い例かもしれないと反省しました。
自分にできないことや自分の能力を超えていることは、AIに任せたとしても平均以下のアウトプットしか出せないのだと思います。
知らないことをAIで効率的にわかろうとするほどわからない。
むしろ無駄に修正する作業が増えた感じもする。
まるで透明なビニール袋を何重にも巻き付けられたような窮屈さを感じました。
確実にスピードは出ているのに、自分の中には何も積み上がっていない。
これまで感じたことのない種類のストレスフルな感覚でした。
価値のある情報とはいったい何か。
ネットで調べると、「再現性が低いもの」を指すと情報が出てきました。
言い換えれば、他の人が同じ質を出すまでに時間がかかるものです。
つまり、簡単に複製できないものです。
AIは複製を得意とします。だからこそ、AI時代に価値を出すには、複製できない何かが必要になります。
私はそのことを考え始めた途端、自信をなくし、自分から行動を起こすことが怖くなりました。
誰かのコピーのような人生、だれかが複製できる人生しか歩んできていないような気がしました。
そんな私がいまさら一次情報って?
もうAIに乗っ取られるしかないのかなぁ、仕事したかっただけなのに。なんて思いました。
AIで情報収集すればするほど、わかりたい気持ちだけが先行して時間だけがすぎていく。
情報の断片だけが増えていき、本当に理解したような気持ちになれない。
なぜだ。わたしはあんなに調べてパソコンの前に何十時間もいるのに理解していないのかと絶望した気分にもなりました。
AI時代は「わかる」ことが増えます。けれど「理解」には至らないことも増えます。
ひとつのことを深くやるより、たくさんのことを浅く知っている状態になっていく感覚があります。
しかも、スピードが速すぎて、AI情報を追っているだけで半日が過ぎます。
私はわかりたいし、理解したいと思っています。
わかったらスッキリする気がするからです。
世界が拡張され、賢くなり、生きた甲斐があったと感じられるからです。
子供の頃から、いつか「世界の意味」や「生と死」すらわかる日が来るのではないか、と無意識に期待していました。
AIを使い始めた時、なんでも調べればわかることで、脳が無限に拡張され、この先世界のほとんどのことは知ることができるとどこかでそう信じていました。
しかし、養老孟司さんの『ものがわかるということ』を読んで私は、一生「わかることなんてない」と言われたような気がしました。
そして、それもまたなぜか「わかる」ような気がしました。
結局私は「わからなければ意味がない」と、ものごとに対して意味を求めすぎていたのかもしれません。
そしてものごとをわかるのにうってつけなツール(AI)が身近にあったがために、脳だけでわかることができると鷹を括っていたのかもしれません。
特に引っかかったのが、次の一文です。
「本当にわかる時が来るのだとしたら、それは共鳴でしかない。」
最初読んだ時、「どういうこと?」と首をかしげました。
例えば、飼い猫と言葉は通じないが意思疎通できているような状態であると書かれており、昔飼っていた犬を思い出しました。
言葉は通じないのに散歩に行くか、ご飯を食べるかが通じているような気がする、その感覚なのかなと思いました。
直近でその感覚がわかったのは、CEOの斎藤とエラー解明の分析をしていた際に、「あの事象と似てる」という言葉にならない感覚、むしろ言葉にもできないようなイメージの感覚が「ああ、あれね」と伝わった瞬間です。
わたしは「なぜ伝わったのかな」と思ったくらい抽象的なイメージ、言葉の断片しか話していません。
言葉の限界を超えて、時間短縮できた瞬間でした。
おそらくAIに対して「あの事象」と伝えたところで、それは全く伝わらないでしょう。
もっと背景や状況を詳細に説明せよと怒られるだけだと思います。
仮にこれまでのエラー情報や顧客との履歴などの背景情報をAIが持っていたとしたら、AIは「わかった、あの事象ですよね」と返してきたかもしれません。
しかし私はそれに対して感動を覚えるのか。
そもそも「わかってくれた」「伝わった」と感情を感じるのか。
検討もつきません。
確かなのは、わたしがあのエラー解析の時に無自覚に欲しかったのは、
エラー分析が進捗するために必要な情報ではなく、
自分のイメージが完全に言語化されていないまま伝わったという感情的な事実だと思うのです。
AIが便利なのは、ノイズを最小限にしながら「なんで?なんで?」を際限なく聞くことができます。
人に聞いたら笑われそうで飲み込んだ疑問も、AIには気軽に投げられます。結果として良い発見につながることもあります。
また、こちらが想定していないところまで念入りに調べて教えてくれます。
スコップで掘っていた穴が、突然ブルドーザーで掘れるようになったような清々しさです。
しかし、そんな巨大な知識の図書館にアクセスできても、私の身体は変わっていません。むしろ老化するばかりです。
雪国では雪かきに追われ、少し無理すれば腰や腕に湿布を貼って数日黙っていなければならない。
眠っても回復しきらない。
栄養ドリンクを飲んだら飲み過ぎで胃の具合が悪くなる。
私は結局この限界が知れてる肉体と脳で生きるしかないのです。
AIにはAIにしかできない時間短縮があります。使わない手はありません。
ただし、AIを通して世界をわかった気分になるのは、まだ早いと思います。
なぜなら、AIは言語を通してしか使えないものだからです。
言語化できる領域ではコスパが高いのですが、言語化以前の段階ではまだ活用しきれていないと感じます。
だからこそ、言語の前段階にある言葉にならないイメージは、自分の体で増やす価値があると思うのです。
相手の表情、手触りの悪さ、引っかかる一言、身体が拒否する感覚。
こういうものは最初から言語になっていない。
言語になっていないからこそ、まだ複製されていない。
だから価値の源泉となり得るのではないでしょうか。
私たちが本当の意味で共有できるのは、五感から生まれる感情やイメージです。
冷たい牛乳をお風呂上がりに飲む感覚。
雪と土の匂い。
炭酸が喉を通る感覚。そ
の瞬間に湧き上がる、言葉にならないもの。
言語化できないイメージ。
AIはそれを代わりに体験できません。(少なくとも今のところは。)
よく、AIに仕事を奪われないために人間にしかできないことをやるべきだ、という議論がありますが、人間が五感によってゼロから生み出すことのできる生命体である限り、本当の意味でAIに置き換えられるということはないと個人的には考えています。
ちなみに養老孟司さんは、本の中で田舎暮らしを推奨していました。
もし2025年、AIの使いすぎで疲れてしまったなら、田舎での不自由な暮らしや土いじりや虫捕り、田舎の郷土料理や銘菓など、食べたことのないものを食べてみるのもいいかもしれません。
身体や五感を通して感じる経験は、人間の生まれ持った感覚を取り戻すきっかけになるのではないでしょうか。
現在私は田舎と東京を行き来して、毎日のように降り積もる雪を掻いて暮らしています。
たまに見るからなのか、雪は白く輝いていて綺麗だと感じることもあります。
この年齢になって初めて出会う銘菓にも出会いました。
あなたが抱く感情や、あなたが共感できる感情は、AIがどれだけ賢くなっても埋められないでしょう。
AIで浮いた時間があれば、言葉にならない感情体験を増やすために使いたいと思います。
あなたは今年、言語化できない感情をいくつ体験しましたか?
まだしていないのなら、2026年は、AIファーストの前に自分ファーストであるべきなのかもしれません。
企業が今こそ踏み出すべき10倍のスピードで10倍の価値を生み出すAIファースト化企業へ生まれ変わるための8つの取り組み